慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で徳川家康と豊臣秀頼の対立は武力衝突に発展したが、講和により終結した。しかしこの講和条件として大坂城の外堀・内堀が埋め立てられ、城はほぼ無防備の状態となった。翌慶長20年・元和元年(1615年)、家康は再び豊臣氏討伐の兵を挙げ、大坂夏の陣が勃発した。5月6日の道明寺の戦いでは後藤基次(又兵衛)が戦死し、同日の誉田の戦いでも豊臣方は苦戦を強いられた。5月7日、天王寺・岡山口の決戦において豊臣軍は壊滅的な敗北を喫した。真田信繁(幸村)は天王寺口の戦いで徳川本陣に突入するほどの奮戦を演じたが、この戦いで討死した。大坂城が落城すると、豊臣秀頼と母・淀殿は山里丸におい…