天正3年(1575年)、織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の騎馬隊を鉄砲で壊滅させた「長篠・設楽原の戦い」の舞台。
信長が構築した馬防柵の復元や、武田方の武将の墓碑が点在する。
設楽原歴史資料館では合戦の詳細な解説と火縄銃の実物を展示。
連吾川沿いの戦場跡地は、当時の地形がほぼそのまま残されている。
馬場信春・山県昌景・内藤昌豊ら武田の名将たちの墓碑が点在し、敗者への敬意を感じる。
毎年7月には「長篠合戦のぼりまつり」が開催され、数千本の旗が戦場を彩る。
鉄砲の三段撃ちの真偽は学術的議論が続くが、火力が騎馬戦術を制した画期的な戦いであることは間違いない。
長篠城跡から車で約10分の距離にあり、セットで訪れると合戦の全体像が見える。
家康が本陣を置いた場所には石碑が建ち、当時の陣形を想像できる。
戦国時代の戦術革新を体感できる、歴史ファン必訪の古戦場。
天正3年(1575年)6月28日、長篠城の救援に向かった織田・徳川連合軍3万8千と、武田勝頼率いる1万5千が激突した。
信長は連吾川の背後に馬防柵を構築し、火縄銃の射撃で武田騎馬隊を迎え撃つ戦術を立案。
武田軍は早朝から騎馬突撃を繰り返したが、鉄砲と槍兵の前に次々と倒れた。
酒井忠次の別働隊が背後の武田軍を強襲し、退路を断った。
約1万の武田兵が討たれ、馬場信春・山県昌景・内藤昌豊・真田兄弟ら名将が戦死。
この戦いは日本の戦術史における転換点として位置づけられている。
武田家はこの敗北から立ち直ることができず、7年後に滅亡した。
現在は国の史跡に指定され、古戦場公園として整備されている。
設楽…