もとは天台宗「福寿山関銭院」と号し、関所の通行料を徴収する役割を担っていた古刹。中世には白河城主・結城氏が中興して「関川寺」と改め、明応元年(1492年)に城主・結城直朝が曹洞宗に改宗した。天正9年(1581年)に現在地の愛宕町へ移転し、小峰城南方の寺町を形成して城下の一角を担った。境内には赤穂浪士四十七士の一人・中村勘助の妻の墓があり、勘助は吉良邸討ち入りに先立ち妻子を白河の縁者に預けたと伝わる。宝暦11年(1761年)に鋳造された銅鐘は、小峰城内の鐘に代わって町方に時刻を知らせる役割も果たし、白河市指定重要文化財に列せられている。