慶長19年(1614年)10月、徳川家康は方広寺鐘銘問題を口実として豊臣氏討伐を宣言し、大坂冬の陣の火蓋が切られた。家康は20万を超える大軍を動員し、豊臣秀頼が守る大坂城を四方から包囲した。豊臣方は総勢約9万の兵力で籠城戦に臨み、真田信繁(幸村)が城の南方に出丸「真田丸」を築いて徳川軍の攻撃を再三撃退した。12月に入ると徳川方は大筒(大型火砲)による砲撃を城内に加え、心理的圧迫を強めた。激しい攻防が続いた末、同年12月に外堀を埋めることを条件とする和議(大坂講和)が成立した。しかし家康はその後、和議の条件を拡大解釈して内堀をも埋め立てさせ、大坂城の防御力を著しく低下させた。この措置は翌慶長20…