文明3年(1471年)、比叡山延暦寺の衆徒による京都大谷本願寺の破却(寛正の法難)で苦境に立たされた本願寺8世・蓮如は、57歳にして北陸の吉崎の地に新たな拠点を築いた。「御文(おふみ)」と呼ばれる平易な仮名書きの法語を大量に書き送って布教する独創的な手法が爆発的な効果を発揮し、わずか4年間で北陸・東海に約10万人もの門徒を獲得。一向宗が戦国最強の宗教勢力へと成長する基盤はここ吉崎で築かれた。しかし門徒勢力の急拡大は守護大名・加賀富樫氏との衝突を招き、一向一揆の温床ともなった。文明7年(1475年)、蓮如は自ら坊舎に火を放って吉崎を退去し、その後は山科本願寺再興へと向かう。吉崎はわずか4年の布教拠点だったが、浄土真宗中興の決定的な舞台となった。