豊後の大名・大友義鎮(宗麟)は弘治3年(1557年)頃に臼杵湾の丹生島へ本拠を移し、永禄5年(1562年)ごろに本格的な海城を築いたとされる。四方を海に囲まれた天然の要害を利用し、宗麟はここでキリスト教布教を後援した。天正14年(1586年)の島津軍侵攻では、ポルトガル伝来の大砲「フランキ砲」(国崩し)で撃退したと伝わり、西洋火器が日本の実戦で活躍した最初期の事例のひとつとされる。関ヶ原後の慶長5年(1600年)に稲葉貞通が入封し、以後稲葉氏15代・5万石が明治まで藩政を担った。明治20年(1887年)に周囲の海が埋め立てられて陸続きとなり、現在は二の丸の畳櫓と本丸の卯寅口門脇櫓が現存する。