武田信玄が整備した伊那谷支配の要衝で、天正10年(1582年)の武田征伐では仁科盛信(信玄の五男)が5万の織田軍にわずか3千で立ち向かい壮絶な最期を遂げた悲劇の城として知られる。現在は城址公園として整備され、固有種タカトオコヒガンザクラ約1,500本が咲き誇る日本有数の桜の名所として全国的に有名。春には薄紅色の花が山城の石垣に映える絶景となり、「天下第一の桜」とも称される花見の名所として多くの観光客が訪れる。
高遠城の起源は中世に遡り、高遠氏が築いた山城が始まりとされる。戦国時代に入ると諏訪氏の支配下に置かれたが、天文16年(1547年)に武田信玄が伊那谷に侵攻し、城を攻略・整備して甲斐武田氏の伊那支配の重要拠点とした。信玄は城を大改修し、三峰川と藤沢川に挟まれた天然の要害を活かした堅固な山城に仕上げたとされる。武田氏滅亡の際、天正10年(1582年)、織田信長の大軍(約5万)が侵攻すると、城主・仁科盛信(信玄の五男)はわずか約3千の兵で籠城し壮絶な抵抗を見せたが、落城し盛信は自刃して果てた。江戸時代には保科氏・鳥居氏・内藤氏らが城主を務め、高遠藩3万3千石の藩庁として機能した。明治維新後の廃城令に…