直江兼続の兜には、正面に大きな「愛」の一字を象った前立が備わっていた。この「愛」の由来については、愛染明王または愛宕権現への信仰に由来するとされる説が有力であり、恋愛や博愛を意味する現代語の「愛」とは異なる宗教的・武将的な意味合いを持つ。当時の武将が神仏への信仰を具象化して兜に掲げることは珍しくなかったが、「義」を重んじた上杉家の気風と相まって、この兜は後世において兼続の人物像を象徴する最も有名な遺品となった。実物の兜は山形県米沢市の上杉神社・稽照殿に現存しており、今も多くの人が実物を目にするために訪れる。
慶長5年(1600年)、徳川家康は上杉景勝に対し、謀反の疑いがあるとして上洛して弁明するよう要求した。これに対し兼続は景勝の名代として、家康の側近・西笑承兌(さいしょうじょうたい)宛に痛烈な反論書を送った。この文書が「直江状」と呼ばれる書状で、家康の疑いを正面から否定するだけでなく、家康自身の行動を公然と批判する内容を含んでいた。激怒した家康はこれを口実に会津征伐の軍を起こし、西国の諸大名が家康の不在を突いて石田三成を中心に挙兵したことが関ヶ原の戦いへとつながった。兼続の文書が天下分け目の合戦を誘発した一因とされ、その剛直な筆致は後世まで語り継がれている。
米沢30万石の再建——家臣を一人も解雇しなかった執政
関ヶ原の戦いの後、上杉家は会津120万石から米沢30万石へ四分の一に減封された。石高が激減した中で家臣団をそのまま抱えることは財政的に極めて困難であったが、兼続は一人の家臣も解雇しなかった。代わりに、最上川沿いに「直江石堤」と呼ばれる大規模な石積み堤防を築いて洪水を防ぎ、農地を広げる新田開発を推進した。また、青苧(あおそ)などの特産品を振興して藩の収入源を多角化し、城下町の街路整備にも着手した。この藩政再建の努力は後世の名君・上杉鷹山の改革の土台となり、「義」と「愛」を重んじた兼続の姿勢は米沢に今も語り継がれている。