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PERSON
北条高時
北条高時
十四代執権・鎌倉幕府最後の執権
1303-1333 · 享年 30歳
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生涯
鎌倉幕府第9代執権・北条貞時の三男として嘉元元年(1303年)に生まれた。母は安達泰宗の娘・覚海円成。応長元年(1311年)に父・貞時が没すると、わずか9歳で得宗家を継承し、内管領・長崎円喜(高綱)の補佐を受けた。正和5年(1316年)、14歳で第14代執権に就任。当初は連署・金沢貞顕らと共に幕政に臨んだが、病弱な体質と政務への倦怠から、次第に闘犬・田楽(猿楽の一種)に耽溺するようになる。徒然草・太平記の記述によれば、京から田楽法師を呼び寄せて連日宴を催し、闘犬は諸国から数千頭を集めるほどの寵愛ぶりで「闘犬の高時」と揶揄された。実権は内管領・長崎高資(円喜の子)と外祖父・安達時顕が握り、両者の対立と専横で政治腐敗が進行した。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の倒幕計画(元弘の乱)が発覚し笠置寺に挙兵されると、嘉暦3年(1326年)に病で執権を辞して出家した(嘉暦の騒動)高時は得宗として幕政を主導し続け、追討軍を派遣して天皇を隠岐へ配流させた。しかし元弘3年(1333年)、楠木正成・赤松円心らの抵抗、足利尊氏の寝返り(六波羅探題攻略)、新田義貞の挙兵(生品神社・5月8日)が相次ぎ、新田軍は鎌倉に迫った。5月22日、稲村ヶ崎を突破した新田軍が東勝寺に攻め寄せると、高時は北条一族郎党870余名と共に自害。享年31。これにより源頼朝以来150年続いた鎌倉幕府は滅亡し、東勝寺の遺跡には今も「北条高時腹切やぐら」が残る。
人物像
病弱で内向的、政務よりも芸能・武術競技に耽溺した。徒然草には「闘犬を好み、田楽法師を寵愛した」と記され、太平記でも惰弱な君主として描かれる。一方で出家後も得宗としての立場を捨てず、後醍醐天皇との闘いには強い意志を見せた。鎌倉幕府滅亡の責を一身に負った悲劇の最後の執権。
歴史的意義
鎌倉幕府150年の終焉を象徴する人物。彼の自害をもって北条得宗家は完全に滅び、源平・北条と続いた武家政権の系譜は一旦途絶え、建武の新政から南北朝・室町時代へと移行する。鎌倉市小町の東勝寺跡に残る「北条高時腹切やぐら」は今も史跡として参拝者を集める。三代将軍源実朝以来、暗殺・追放・自害が続いた鎌倉殿の系譜は、高時の死をもって完全な終焉を迎えた。
辞世の句
辞 世 の 句
吹き渡る 風に散る花 諸共に 散り行く身こそ 哀れなりけれ
逸話・エピソード
闘犬の高時
徒然草に「闘犬を好み諸国に犬を集めしめ、田楽法師を寵愛して連日宴を催した」と記される。京・鎌倉の路で犬同士を戦わせ、勝った犬には絹の唐衣を着せたという。
田楽法師との一夜
太平記によれば、ある夜高時が酒に酔って田楽を舞っていると、十数人の見知らぬ法師が館に現れ共に舞った。明け方に消えた彼らの足跡には鳥獣の爪痕があり、人々は「天狗の戯れ」と恐れたという。
東勝寺の最期
元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めで稲村ヶ崎が突破されると、高時は東勝寺に北条一族郎党870余名と籠もり集団自害した。寺は焼亡し、現在は東勝寺跡と腹切やぐらが鎌倉幕府滅亡の悲劇を伝える。
ゆかりの地 — 6
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